第8回 More than just vigor

2012年11月05日 16:17日

今回も野球ネタです!今回はトレーナーとしての話と言うよりは、メジャーリーグの歴史の中で一人でも多くの人に知っていただきたいことについて書かせていただきます。

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「Jackie Robinson」という選手についての話です。
今では多国籍・多人種が当たり前になってきたメジャーリーグですが、戦前からある歴史の中で「人種差別」があったということも現実として否定できません。

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アメリカという国の中で人種差別があるのですから、メジャーリーグの中でもこういう問題が存在していたのは至極当然のことでしょう。
古い歴史の中での話なので私は全てを理解はできていませんが、私が在籍していたロサンゼルス・ドジャースに関わる話しとして球団の関係者から色々と教わることがありました。

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この「ジャッキー・ロビンソン」という選手を簡単に紹介すると、1900年以降のメジャーリーグの中で初めての黒人選手(アフリカ系アメリカ人)としてプレーし活躍した選手であるということです。

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先にも話したように「人種差別」という大きな壁がある中で、幾多の苦難を乗り越えメジャーリーグというステージでプレーするだけで無くチームのリーダー的存在として活躍しチームを優勝へと導いたのですから、その精神力と活動・行動力にはただただ敬服するばかりです。

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1890年頃、MLB(メジャーリーグベースボール)では、有色人種排除の体制が確立されていました。
そんな最中、ジャッキー・ロビンソンは地元ロサンゼルスでスポーツ選手としての才能を活かしUCLAでもその非凡さを発揮していたようです。
ちなみに、お兄さんのマシュー・ロビンソン氏はベルリンオリンピックの陸上競技200mで銀メダルを獲得したということなので、ロビンソン家はスポーツ万能一家だったのでしょう。

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そんなジャッキー・ロビンソンは、1945年「ニグロリーグ」のカンザスシティ・モナークスと契約しプロ野球選手としての第一歩を踏み出しました。
その後、ニグロリーグでの活躍を聞きつけた当時「ブルックリン・ドジャース(現ロサンゼルス・ドジャース)」のブランチ・リッキー会長がジャッキー・ロビンソンをドジャースに入団させました。

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そして1947年4月15日の本拠地エベッツフィールドでの開幕戦でデビューし、そのシーズンを打率297 本塁打12 打点48 盗塁29 という成績でチームの優勝に大きく貢献し、自身も新人王に輝くという華々しいデビューを飾りました。
1949年には打率342で首位打者と盗塁37で盗塁王の二冠を制し、そのシーズンのMVPにも輝くというまさにスーパースターの座を手に入れたのです。
ここまでジャッキーの野球人生においては順風満帆に見えますが、この結果を出すまでの間には「黒人選手が在籍しているチームとは試合したくない」「黒人選手と同じロッカールームは使いたくない」などという人種差別問題が常に付きまとっていたということですから、この状況を跳ね返し結果を出し続けたジャッキーの精神力は相当強いものだったことが伺えます。

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もちろん、ジャッキー一人の力でこの悪環境を乗り越えたわけではありません。MLBコミッショナーやドジャースの会長・監督、など多くの人の力添えがあり、ジャッキーのサポートになったわけです。
周りの人たちが当時根付いていた人種差別に対し一緒に立ち向かってくれたということは、それだけジャッキーの能力と人柄が素晴らしかったのでしょう。

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補足としてこんな話を聞いた事があります。ジャッキーの入団当初、快く思っていなかった選手がいつの日かジャッキーにバッティングの技術を教わるようになっていた・・・

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私には偉そうなことは言えませんが、人種を超えて相手の品格・技術を認めるところが本当のアスリートなんだなと思いました。
ジャッキー・ロビンソンは1957年にドジャースから他チームへのトレード話が浮上した時に「ドジャースでプレー出来ないならもう野球を辞める」と言って引退したそうです。

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1962年には野球殿堂入り、1972年にはジャッキーが着けていた背番号「42」が永久欠番となり、さらに凄いこととして1997年にはメジャーリーグ全チームで永久欠番になったのです。
(現在ヤンキースでプレーしているマリアーノ・リベラ選手は、この全球団永久欠番になる以前から42番を着けていたので、リベラ選手ただ一人が42番を着けることが許されています)

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そして、2004年4月15日に1947年同日にメジャーデビューを果たしたことを記念し「ジャッキー・ロビンソン デー」を制定しました。
このジャッキー・ロビンソンデーはメジャー全ての試合で適応され、選手・関係者・ファン、全ての人たちがジャッキーの功績を称えるとともに追悼の意を表しています。

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その後、当時のスター選手であった「ケン・グリフィーJr」の発案で4月15日は、希望者のみ背番号42を着けてプレーしようという呼びかけがきっかけとなり、現在では当日は敵味方関係無く「全選手」が「42」番を着けてプレーするようになりました。

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こんな大胆なことを普通に行ってしまうのもメジャーリーグならでは、です!私自身も「日本人トレーナー」ということである種差別的なことも味わってきました。でも私の経験なんてジャッキーからみれば比較にもならないでしょう。
そして、こんな私でも力を見せて品格を保てば仲間として認めてもらえる喜びを体験しました。この部分でもジャッキーの喜びは私の何千いや何万倍の喜びだったと思います。

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そして私も、こんな素晴らしい選手がいたチームに在籍できたことを誇りに思います。

広報室
湘南医療福祉専門学校